映画「人間失格」における赤色のイメージ
1. 初めに
私が今回このテーマを選んだのは、日本研究入門演習の授業で「雪のイメージ」というテーマの発表があった時、山澤先生が映画「人間失格」(監督荒戸源次郎、2010)における赤色の印象についておっしゃったからである。
私は以前から、赤という色について、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズや井上荒野「学園のパーシモン」、高校時代の恩師であり現代画家でもある今井充俊先生の油彩画などからインスピレーションを受け、いずれ研究したいと思ってきた。今回前述作品ではなく映画「人間失格」を選んだのは、前述作品は言及箇所が膨大であったり、作中で比較的はっきりと色の役割が示されていたり、信頼がおける出典を見つけられなかったりするなどの理由で適切ではないと思われたからである。映画「人間失格」は私が最も好きな映画の一つであり、同時に挑戦的な作品であると思っていたので、今回のレポートのテーマにふさわしいと考えた。
このレポートでは、映画「人間失格」における赤色のイメージと役割について、原作との比較や色彩学の観点から、映画「人間失格」の中で赤色が何を象徴しているのか、なぜ映画「人間失格」で赤色が特徴的に使われるようになったのかを明らかにしたいと考える。
以下、映画「人間失格」(監督荒戸源次郎、主演生田斗真、2010)を映画、「人間失格」(太宰治,1952)本文を原作、これら二つやマンガ版、朗読CDなどを含めた全てを「人間失格」と呼称する。原作を題材にした作品(原作の内容・ストーリーを含む)は「人間失格」とは区別し、派生作品と呼ぶ。また、本論における映画の台詞の引用はDVDの日本語字幕、原作の引用は青空文庫に寄った。
2.本論
2-1.「人間失格」における赤色
まず、映画における赤色について言及する前に、赤色のイメージが映画特有のものかどうかを明らかにしたいと考えた。そこで、原作に元から赤色のイメージが組み込まれていたのか、また映画以前の「人間失格」において赤色のイメージが形成されているかを調べた。
初めに、原作と赤色の関係について、原作から「赤」という単語を抽出してみると、計17件であった。このうち、11件が「赤恥」、「赤ん坊」、「顔を赤らめて」などの慣用句的な用法で、7件が純粋に色としての赤に言及した箇所であった(図1)。慣用句的な用法11件のうち、顔色を示しているものが7件、恥を表しているもの(「赤恥」など)が3件であった。また、赤色から連想させるものであり原作と関係があると考えられる単語として「血」を抽出してみると、計17件であった。これは、葉蔵が喀血をする場面で多く使用されていた。さらに、類義語や連想語として「朱」「紅」「緋」「丹」「茜」「あかね」「臙脂」「えんじ」
「レッド」「スカーレット」「ヴァーミリオン」「煉瓦」なども試みたが、いずれも0~1件
色としての「赤」という単語を含む文章
……浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、……
……焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を……
……自分の顔の半面にべったり赤痣《あかあざ》でもあるような、……
……そのハンケチに赤い霰《あられ》が降ったみたいに血がついていたのです。
白のアントは、赤。赤のアントは、黒。
近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、……
……六十に近いひどい赤毛の醜い女中をひとり附けてくれました。
の結果であった。これらから、原作では「赤」とそれに関連した語の使用が多いとは言えない。またその重要度も、さほど高くないと推測できる。
次に、映画以外の「人間失格」と赤色の関係について、「人間失格」の表紙やパッケージに赤色が使用されているかどうかを調べた。Web本棚サイト「ブクログ」(http://booklog.jp/)において、「人間失格」と検索し得られた50件の結果のうち、派生作品や重複、表紙画像不明などを除いた33件について検証した(図2)。これら33件中19件が該当であり、全ての商品ジャンルにおいて該当が見られることから、「人間失格」の表紙には赤色が多く使われていることがわかった。よって、「人間失格」において、映画以前に赤色のイメージが形成されていると言える。
ジャンル 小説 マンガ 電子書籍 CD DVD 英文
総数 15 9 3 2 1 1
赤を含む 6 7 2 2 1 1
これら二つの結果から、赤色は映画特有のものではなく、「人間失格」が受容されるなかで一般的に持つようになったものであることが分かった。さらに、原作では赤色のイメージは明示されていないにも関わらず、「人間失格」においては赤色のイメージが形成されていることがわかったが、それはなぜなのだろうか。これに対し、二つの推測があげられる。一つ目は、葉蔵の喀血のイメージである。二つ目は、「赤恥」に見られるような、恥の象徴としての赤色のイメージである。しかし、この二つの推測は非常に弱いものであろう。「人間失格」が赤色のイメージを持つにいたった原因を、他の「人間失格」より際立って多く使用した映画について考察しながら明らかにしたい。
2-2.色彩学における赤のイメージ
一般的な赤色のイメージは、エネルギッシュで情熱的な色と考えられている。色彩活用研究所サミュエル(2012)や武川(2007)などによる配色ガイドにおいても、赤はもっとも強力な色であり、エネルギーやバイタリティ、行動力、勇気、自信、闘志をわき起こす色だとされている。赤は、体内を流れる血の色であり、また、空を染める太陽の色でもある。血と太陽、どちらも人間の命の源であり、活動を維持するために不可欠であるため、赤は古来より生きることに直結した色として、力やエネルギーの象徴というイメージを持たれてきた。太古の遺跡には赤で彩られた壁画や埋葬品が数多く見つけられた(今井の絵画の赤色も留学先イタリアのポンペイの遺跡にインスピレーションを受けたものである)。古代人は、火や血を連想させる赤に溢れる生命力を感じて、呪術的な役割を託していたと考えられている。このような中で、病気、悪、災害など恐れるべきものへの抵抗力としての赤色が根付いていったと考えられる。
また、赤は全ての色の中で最も官能的であり、欲望を刺激するものであるとも言われている。金銭欲はもちろん、セクシュアリティとも密接な関係を持ち、挑発的で情熱を喚起する誘惑的な色であるとして使われている。
日本の伝統色に関する著作が多い福田(2007)によれば、赤は、一説によると黒の反対語で、語源は「明し」であり、現在のような色そのものを指す語ではなく、明るい、明らかなど視覚的印象を表す語であった。日本語学博士である矢澤(2013)も、言葉の機嫌からすると、「あか」は「あかるい」と同語源で、「くらい」を語源とする「くろ」と対立する色とされると述べている。
ここで、原作で何気なく用いられた文章にもこのようなことを述べているものがあることに気づく。堀木が葉蔵とヨシ子の新居に訪ねてきた際、堀木と葉蔵はベランダで暇つぶしの対義語を挙げるゲームをする。その説明に、「黒のアント(対義語《アントニム》の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。」と書かれている。ここで、この三色が取り上げられたのは単なる偶然なのだろうか。この文章だけでは判断できないが、少なくとも黒、白、赤の三色に関係がある、特に赤の対義語が黒であるという認識は原作に表されていると言えよう。
さらに、配色の技法について考えてみる。アイズマン(2012)によると、色のドミナンスに関して、配色の方法に関わらず、一般にドミナントカラー(支配色)が与えられた面積の75%を占め、サブオーディネイトカラー(従属色)が25%を占める。三色構成の場合、ドミナントカラーが70%、サブオーディネイトカラーが25%、アクセントカラー(強調色)が10%である。また、ドミナンスはトーナリティ(色の調性)とも呼ばれ、トーナリティはある色、または色系統に対して視覚的な重要性を与えるだけでなく、他の色の存在に関係なく見る人が全ての色構成におけるムードやメッセージなどの心理的影響を決めるのに役立つと述べている。このような色のドミナンスの観点から、映画における配色構成を考えると、ドミナントカラーが赤、サブオーディネイトカラーが黒、あればアクセントカラーが白ではないかと推測できる。
黒色に関して、赤色同様に色彩活用研究所サミュエル(2012)や武川(2007)などの配色ガイドを参照すると、恐怖と結びつく暗闇の色である黒は、不吉、絶望、罪、悪などの忌むべきことを象徴し、善や正、吉兆のイメージである白と対比して語られる。白と黒の組み合わせは、同様に光と影、無罪(シロ)と有罪(クロ)なども表す。また、黒は感情を表に出さない、あるいは隠している色でもある。暗闇は恐怖すべき対象であるが、同時に暗闇と一体化することで周囲から身を隠し、自分を守ることになる。このように黒は周りのあらゆるものから自身を守る働きも有する。
以上から、赤は生命や血、力の象徴、または病気や災厄に対して身を守る呪術的な意味合いを持つ。さらに語源から考えると、赤の対立する色は黒であり、黒は絶望、悪、罪、暗闇などの象徴であり、同時に感情などを隠す色である。また、映画の配色において赤がドミナントカラー、黒がサブオーディネイトカラーとして対比的に用いられているのではないかと推測される。
2-3.映画における赤色
この章では、映画における赤色の描写について検証しながら、2章1,2節の考察を検証していきたい。
まず、パッケージは、赤と黒の比率はむしろ黒が多く(生田の髪の毛の部分が含まれるため)、これは2節で書いた色のドミナンスの推測と一致していない。DVDの豪華版においては、箱前面に赤が使用されており、ドミナンスと一致している。映画本編の色のドミナンスに関しては、統一的なドミナンスが存在するとは言い難い。しかし、場面ごとに赤が基調のシーン(例:カフェのシーン)、無彩色が支配的なシーン(例:鎌倉入水後のシーン)など、心情や雰囲気を表すドミナンスが表れると考えられる。このように、色のドミナンスは統一的ではなく、それぞれの場面に合わせて使い分けていると考えられる。
映画本編では、赤色は大きく分けて三つのものを表している。
まず一つ目は、男女の象徴である。これは、一般的にも男性が黒色、女性が赤色を表すことが多いが、それだけでなく、この映画では恋愛感情や性的な関係を含む男女の意味合いも強い。女性と男性の服装を比べてみると、男性はほぼ一貫して黒またはそれに類似する色(夏は白色を着用している場面もある)であり、赤色は一部例外を除いて全く使用されていない。
一方で女性は赤い服の着用が多く、特に下宿の女主人礼子の赤いカーディガンが印象的である。さらに女性の服装について細かく見ていくと、従姉のアネサやカフェの女給常子は初登場から赤い着物を着ている。アネサは口紅も濃く鮮やかな赤を使用している。常子は入水の際に帯を取ると赤い帯を巻いており、さらに葉蔵と常子の足をつなぐ糸も赤い糸である。これは心中する男女の足は赤い糸で繋ぐという通説に従っていると考えられる。初登場時に赤い色を身にまとっていなかった礼子や薬屋の、津軽で葉蔵の世話をする鉄は、時間が経過するにつれて赤い服を着用するようになっていく。また礼子は葉蔵の部屋を掃除する際、赤いバラの花を花瓶に飾り、うっとりと眺めている。これは葉蔵への恋心や性的関係の示唆であると考えられる。これが最も顕著に表れる例がバアのマダム律子である。男性に勝る義侠心を持つと原作に書かれている律子は初登場時からほぼ一貫して白黒の服を着用しているが、葉蔵と同居している期間のみ赤みがかった着物を着用しているのである。このことで、葉蔵との何らかの恋愛関係を表すものとしての赤色が使用されていることがわかる。葉蔵が礼子の身にまとう鮮烈な赤に象徴される恋愛の情熱に気圧されて下宿を去ったことが視覚的にも表されていると考えられる。
二つ目は、欲望の象徴としての赤である。2節では赤色が金銭欲や性欲、官能を促す色でもあると述べた。映画では、カフェや茶屋のシーンで赤色が使われていて、特にカフェでは全体的な色調が赤系の色で統一されており、非常に享楽的できらびやかな印象を受ける。また、モルヒネの箱や包み紙も赤色である。これも快楽の象徴としての赤と考えられる。
そして三つ目は、生命の象徴としての赤である。これは、前述二つと意味の重なりを含みながら、映画全体を通して示される象徴である。この生命の象徴としての赤は、血のイメージでもあり、転じて血の通った「生きている人間らしさ」を象徴すると考えられる。葉蔵の幼少期に、机の上の唇の彫り物に赤インクを垂らすシーンは、赤い唇は生き生きした血の通っている感じを表し、それに一種憧れる葉蔵を描いていると思われる。また、竹一に見せた葉蔵の自画像は、黒を基調とした絵で、肌が黒く塗られているのが特徴的である。赤と黒という対比と、葉蔵がこの絵を「オラのお化げ お化げのオラだ」と説明することから、生き生きとした人間らしさがない自分、「人間として不完全」な自分、すなわち化け物の自分を黒という色によってあらわしている。このように、映画では、赤と黒という色の対比が、「生きている人間⇔生きていない化け物(葉蔵)」の対比として使われていると考えられる。
この対比が表れるのが金魚である。新聞社で働く未亡人静子との同棲において、金魚が初めて現れ、そのあとも度々登場するこの金魚は表面的には男女を表す。静子との同棲では黒の金魚一匹、赤の金魚一匹、小さい赤の金魚一匹の金魚鉢はそれぞれ葉蔵と静子、静子の連れ子である重子を表す。静子と別れる際、葉蔵は黒い金魚のみを持ってバアに転がり込むが、その時のバアの金魚鉢には黒い魚のみが十数匹飼われ、これはバアに集う男性客を表している。その後葉蔵が良子と結婚すると、二人の家には再び金魚鉢が置かれ、黒と赤の金魚が一匹ずつ買われる。良子と別れた後には葉蔵の元に黒の金魚だけが残る。このように、一見して男女の区別だけを表すように見えるが、それだけでなく、生き生きと日々の日常を送っている女とそうでない男という対比があるのではないだろうか。この考えの根拠として、監督の荒戸(2010,キネマ旬報3月上旬号)は対談の中で「」と述べている。このように生活に直結した営みを行い、「地に足をつけて生きている女」とそうでない男という荒戸の生命を通じた男女観が表されていると考えられる。一方原作でも「女のひとの義侠心なんて、言葉の奇妙な遣い方ですが、しかし、自分の経験に依ると、少くとも都会の[#「都会の」に傍点]男女の場合、男よりも女のほうが、その、義侠心とでもいうべきものをたっぷりと持っていました。男はたいてい、おっかなびっくりで、おていさいばかり飾り、そうして、ケチでした」と葉蔵が述べる部分があるので、金魚に表される男女観は原作にも通じるところがあると言えよう。
生きている人間らしさの象徴としての赤は、同様に堀木と葉蔵の出会いのシーンでは、堀木が葉蔵の絵の上に赤い絵の具をたくさん乗せていく。これは、堀木との出会いによって葉蔵の人生が享楽的なものになったとも考えれらるが、堀木の「これで少しはましになった」という台詞から、葉蔵の生命感のなさを示唆しているとも考えられる。また、常子と入水した後の画面の色調はほぼ無彩色であり、唯一の赤色は葉蔵の持つゴッホの画集である。このゴッホの画集(=画家への夢の象徴であり、葉蔵にとって唯一の生き生きしたもの)を葉蔵は古本屋に売るが、それを中原中也が買い戻す。これに象徴的な意味が与えられていることはその後のシーンからも明白である。
その後の中也と葉蔵が鎌倉に行くシーンは作中で最もストレートに生命としての赤を表している。中也はもう自分の命が長く続かないことを葉蔵にほのめかし、死ぬことを惜しむ。そのあと、二人がいるトンネルの上の水滴が線香花火の火に代わり、中也はそれを舌の上で受け止める。中也の周りでは一面に線香花火の火花が散っているという場面である。このシーンでは、中也の散りゆく命が、その最後の輝きを放ちながら消えていくことを象徴している。それに続く中也と葉蔵が並んで座っているシーンでは、赤とピンクの花びらが画面いっぱいに散るところから始まり、映画の中でも非常に明るい色彩で一種幻想的な雰囲気を持つ。そこで中也は「前途茫洋」と言う意味の「ボーヨー ボーヨー」と言う言葉を言う。この言葉から、中也がこの鎌倉旅行で葉蔵に示したかったものは、将来への希望、生きることへの希望だったと考えられる。中也が死んだことを知ったのちに葉蔵はこのトンネルに中也の供養に訪れ、トンネルの天井から落ちる水滴を舌で捕まえようとするができない。これは残り少ない命を精一杯輝かせようとする中也への憧れからの行動ではないかと考えられる。
また、中也の線香花火同様印象的なシーンである喀血のシーンでは、大の字に寝転がるという演技に対し、主演の生田はインタビューで「」と答えている。この血と安堵に関して、私はもう少し踏み込んで、血の通った「生きている人間らしさ」の欠落に苦悩してきた葉蔵は、喀血によって自らの体にこんなにも赤い血が流れている、もう命が長くないと知り、相対的に今まで命があったことを実感する、という自らの命の証があったという安堵もあるのではないかと考えた。
このように映画では生命、生きている人間らしさの象徴として赤色が使われていることが分かったが、この赤色はどこに由来するのか考えると、原作のはしがきに、葉蔵の写真を評して、「どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命《いのち》の渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、……」と主人公が述べている。この「血の重さ」であり「生命の渋さ」、これが人間失格に広く共有される赤色のイメージなのではないだろうか。1節で述べた通り原作では赤は顕在的には示されていないが、潜在的に示される赤、それが葉蔵が持たず、希求し続けた「生きている人間の生命の渋い」赤色なのであろう。
2-4.赤色を通じて映画が表したかったこと
3節で映画における赤の象徴について述べたが、この検証を通して、象徴としての赤が映画において原作と異なる物語の核を示唆しているのではないかという考えに至った。
構成における映画と原作の違いは、原作は徹底して一人称の内面的な視点を保っているのに対し、映画は非常に客観的で原作に比べ心情描写は示唆にとどまる。原作の魅力はこのようなまるで自分のことと錯覚するほどの一人称の語りであるがゆえに、映画は原作ファンにあまり受け入れられなかったと言えよう。映画はどうしても心理描写において小説に劣る(これが今まで「人間失格」が映画化されなかった所以であるとも言える)ので、客観的な視点を取り入れるのはある意味当然の帰結であるが、この映画においてはそれが非常に顕著である。
まず、この映画は時代設定を明確にしている。荒戸は、「時代設定で言えば、葉蔵が不忍池で絵を描いているシーンが昭和11年。その2か月くらい前には『二・二六事件』があって、数か月後には『阿部定事件』が起こる。(略) そこから5年間を野球で言うところの“フェアゾーン”、光を当てるところだと考えて映画にしたよ」と述べている(http://www.cinemacafe.net/article/2010/02/19/7655.html)。映画のラストシーンでも太平洋戦争の始まりをラジオであらわし、社会背景とのつながりを示している。ただ、原作におけるストーリー上の時代背景を表す部分が映画ではカットされているため、やや唐突な印象は否めない。
また、女性と葉蔵の関わりにおいても、原作はあくまでも葉蔵の語りでしかない女性が、映画では主体的な存在として描かれている。これについても芝山は「大庭葉蔵が女を遍歴していくのではなくて、葉蔵という透明な回転ドアを抜けて、女たちが出たり入ったりしていく。つまり構造が、映画と原作とではある意味で一八〇度違うわけで、……」と述べている(2010,キネマ旬報3月上旬号p.68)。葉蔵は数多くの女性のそれぞれの生き様を映す鏡のような役割なのである。このような考えは3節で述べた荒戸の男女観から来るものであると考えられる。しかし、「葉蔵という透明な回転ドアを抜けて、女たちが出たり入ったりしていく」一方で、ドアに入りもせず出ていきもしない存在がある。それが男たちである。
人間失格における重要な男性は、葉蔵を除くと堀木、中也、平目(渋田)である。このうち平目は原作との違いがほとんどないので、堀木と中也に注目することにする。この二人の重要性は、最後の回想シーンでも明らかである。
まず、服装について、男性はほぼ一貫してすべて黒系の色で、特に赤は全く身に着けないのだが、この二人は両者ともに一回だけ赤色を着用する場面がある。中也は葉蔵を鎌倉に連れ出すシーンで赤い襟巻を着用し、堀木は葉蔵を脳病院に入れるために迎えに来るシーンで赤いネクタイを締めている。両者ともに葉蔵を迎えに来るシーンで赤色を着用していることがわかる。この赤色は、葉蔵に対する何らかの愛着、何らかの情を表すのではないかと思われる。服装の観点から見ても、この二人が際立って映画中で特別な役割を与えられていることがわかる。
中原が葉蔵に与える影響については、3節でおおよその部分を述べたが、葉蔵に生きることの意味、希望を示すために荒戸は中也という人物を「人間失格」のストーリーに取り入れたのではないかと考える。葉蔵も中原とは鎌倉旅行を通じて信頼と親愛を育み、慕うようになったと考えられる。葉蔵と健全な交友をし、葉蔵に正の影響を与えたのは中也だけであると言ってもよいであろう。
一方の堀木は、原作と同じ部分が多いが、後半で大きく異なっている部分がある。さらに、女性たちや中也は物語の途中で退場し入れ替わっていくが、堀木はほとんどを通して葉蔵と共に行動している。ここで、堀木の映画内の行動の流れを追っていくことにする。
まず、出会いのシーンで、3節で述べたように葉蔵の描いている風景画に赤い色を重ねて「これで少しはましになった」というシーンから、二人で手漕ぎボートに乗っているときに堀木が葉蔵に「ところで 5円貸してくれないか」と言い、葉蔵は素直に5円を貸して、ここから二人の友情が始まることになる。この台詞は作中で何度か登場し、その度に葉蔵は堀木に5円を貸す。その後交友が続き、堀木は最終的に葉蔵がモルヒネ中毒になったとき、葉蔵を脳病院に連れて行くために平目と二人葉蔵を訪れる。ここから始まる部分が映画特有のシーンである。そして脳病院で、最後の別れのときに堀木は葉蔵に餞別としてモルヒネの注射液を渡すが、中を見た葉蔵はそれを「要らない」といって床に投げ捨てる。堀木はそれを残念がりながら「5円貸してくれないか」と頼むが、これにも葉蔵は「イヤだ」「イヤだ」といい、堀木から距離を取る。すると堀木は、急に態度を変え、「死にぞこないの麻薬中毒が偉そうに!」「これで お前はお終いだな」「俺は初めて会った日から 顔も 声も―― 大庭葉蔵の全てが嫌いだった」「今はそれ以上に憎んでるよ」と言う。それを聞いて葉蔵は笑いだす。
これで、堀木と葉蔵の交友が空虚なものであったことがわかるが、堀木の人物像について、荒戸は「2人とも(筆者注:堀木と中也)ある種“メフィストフェレス(人間を悪徳へと導く悪魔)”だわな。堀木は、葉蔵の“甘さ”に対して“辛さ”を出したかったから、苦み走った伊勢谷くんは適役でした」と述べている。確かに堀木は原作でもメフィストフェレス的に描かれていて、酒や女遊びを葉蔵に教え、上記の病院のシーンでもモルヒネを渡すなど、葉蔵を堕落させようとしているように見える。
しかし、本当に葉蔵を堕落させるためだけの人間ではない悪魔的な存在であるならば、「今はそれ以上に憎んでるよ」という台詞はやや不自然である。初めから嫌いであり、それから憎むまでの感情の変化があることは、何かしらの葉蔵に対する人間的な感情が存在すると考えられる。そこで、もう一つの映画内の全体の流れを追ってみたい。
もう一つの堀木と葉蔵に関する流れは、絵の具のチューブである。堀木は、初めて葉蔵と酒を飲み、葉蔵宅に泊まった際に、葉蔵の赤い絵の具を盗んでいる。そして、葉蔵が堀木宅を訪れた際に絵の具箱の中にその赤い絵の具があり、堀木はそれを葉蔵から隠すように絵の具箱のふたを閉める。そして最後の列車の中のシーンで、通路を中也とともに歩いてきた堀木は葉蔵に「ところで 5円貸してくれないか」と頼み、あわてて葉蔵が5円を取り出そうとする手を抑え、葉蔵に自身が盗んだ赤い絵の具を返し、葉蔵の前のボックス席に座る。この絵の具が赤色であるということが非常に重要である。
この赤い絵の具をめぐる一連の流れは、赤が生命の象徴であることから、堀木が葉蔵に寄生し、悪徳を教えて生気を抜き取るような印象を強化するように思える。しかし、盗まれた絵の具に注目すると、絵の具を隠すシーンでも、絵の具を返すシーンでも、絵の具は減っていない。本当に堀木が葉蔵から生き生きした人間らしさを奪って堕落させたのであれば、少なくとも絵の具を隠すシーンで絵の具は使われて減っているはずである。つまり、堀木は葉蔵から絵の具を盗んだはいいものの、その絵の具を使うことは最後までできなかったのである。これが、堀木の葉蔵への複雑な感情を示しているのではないだろうか。
葉蔵にとって堀木がどんな存在であったかは映画では示されていないが、荒戸(2010,キネマ旬報3月上旬号)によると、葉蔵は男女の差別がなく、映画ではバイセクシャルである。また、前日にカフェなどで遊んで料亭に泊まった朝、湯豆腐を共に食べるシーンで、葉蔵と堀木は、葉蔵「堀木さん 一緒に死のうか」堀木「(噴出して)やなこった! 死にたがりは勝手に死んでくれ 第一心中の相方は女にしろ でなきゃ恰好つかねえぜ」葉蔵「そうか」というやりとりをしている。この後心中をする常子との関係から、断言することは出来ないが葉蔵は堀木に対して何らかの恋愛感情を抱いていたのではないかと推測することは行き過ぎとは言えないであろう。
そして最後の、列車に今までの登場人物が勢ぞろいするシーンがある。このシーンは、葉蔵の回想として描かれている(ほとんどの登場人物が映画内と同様のことをしている)が、他の登場人物が全て席に着いている中で、中也とともに通路を歩いてくる堀木だけは、原作とは異なる言動をする。その内容は上記のとおりであるが、この点で、このシーンがただの葉蔵の回想ではないことがわかる。ここで、5円を出そうとする葉蔵をとどめ、赤い絵の具(=葉蔵が最後まで愛した絵画を描くこと、画家への夢への象徴であり、葉蔵にとっての唯一の生き生きしたものの象徴)を渡すシーンは非常に象徴的である。このシーンは無論葉蔵の願望であり、あるいはありえたかもしれない可能性であり、ことによると日の目を見ないままであった堀木の葉蔵に対する真実の感情であったという可能性が考えられる。つまり、堀木と葉蔵は、お互いに憎しみ合い軽蔑しあいながらも心の奥底では、お互いにあこがれ、惹かれあい、真実の心の交流を求めていたとのではないかと思われる。
この列車のシーンで堀木が葉蔵に絵の具を渡した後、葉蔵の通路を挟んで反対側に座った中也が「ボーヨー ボーヨー」と言うことで、このシーンがこの映画の総括的な意味を持ちながら、非常に明るく前向きな印象を与える。これによって、「人間失格」のある可能性を示しているのではないかと思われる。それは、葉蔵の「女のいないところに行くんだ」という台詞に表されるが、葉蔵は男性との関わりにおいては、人間として悲劇的な結末を迎えることはなかったのではないかという可能性である。男性との関係を細かく洗い出していくと、葉蔵が求める「生きている人間らしい」関係が築けていたのではないかと推測される。
このように、映画では、原作にはない新しい見方を示唆するために、映画内で象徴的に使用される赤色をうまく利用していると考えられる。
3.まとめ
「人間失格」における赤色は原作には明らかには示されていないが、原作の、「血の重さ」「生命の渋さ」と言うべきものにルーツがあり、そこで暗に示された赤色のイメージが「人間失格」の表紙やパッケージに表されたと考えられる。また、映画ではその「生命の渋さ」を「生きている人間らしさ」という男女観や欲望を包括する生命の象徴の色として赤色を描きだし、かつ象徴的な赤色を使用することによって原作にはない新しい視点からの見方、新しい読みを示している。このような点で映画は非常に意欲的で挑戦的な作品であると言えよう。
配色については映画の美術に関する資料が入手困難だったこともあり、考察が不十分であった。また、映画の時代背景の面からの考察は今回のテーマと隔たりがあるため、盛り込まなかったがいずれ検証の必要なテーマであろう。そして、本論で少し触れた「人間失格」における主観と客観というテーマについては、今回のレポートでは必要最低限しか触れなかったが、原作の研究の中でも重要な位置をしめ、大きなテーマであるので、原作と映画の比較研究が必要であると考えられる。これらを今後の課題としたい。
4.参考文献
荒戸源次郎「人間失格」2010
太宰治「人間失格」青空文庫(底本新潮社,1952),1999年公開2011年修正 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card301.html(2月24日閲覧)
荒戸源次郎,芝山幹郎『対談 荒戸源次郎×芝山幹郎 「人間失格」を語る』「キネマ旬報」No.1552 3月上旬号,キネマ旬報社,2010
色彩活用研究所サミュエル監修「色の辞典 色彩の基礎・配色・使い方」西東社,2012
リアトゥリス・アイズマン『色彩の重要な世界』色彩活用研究所サミュエル監修「色の辞典 色彩の基礎・配色・使い方」西東社,2012
武川カオリ「色彩力 PANTONEカラーによる配色ガイド」ピエ・ブックス,2007
福田邦夫「日本の色」主婦の友社,2007
井上純一 矢澤真人監修「月とにほんご 中国嫁日本語学校日記」アスキー・メディアワークス,2013
「『人間失格』荒戸監督インタビュー「生田斗真?50年に一人だね、モノが違うのさ」」2010年2月19日 http://www.cinemacafe.net/article/2010/02/19/7655.html(2月24日閲覧)
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